企画概要
- 県道52号線と並んで南区の重要な道路・行幸道路を歩いてみよう
- 実は南区区間はあんまり多くないけど気にしない
- せっかくなので起点から終点方向へ向かって歩いてみよう
- とりあえず「行幸道路」の区間は歩いてみよう
- 残りの「県道51号線」はまた考えよう
- あまりにも暑くなるようならサスペンデッドゲームにしよう
といった感じのゆるめの企画です。
前回の記事はこちら
第1話から読みたい方はこちら
おことわり
今回は持ち歩いていたカメラさんのレンズが絶不調で、撮ったはずの写真が半分ほど撮れていない(撮影出来ていた枚数は52号線の時の半分)、撮れていた写真の半分は超絶ピンボケといった感じでした。なんとも悔しい感じではありますが、なんとか使える写真をひねり出して行きたいと思います。
ここまでのあらすじ
現在地は、小田急相模原のツインタワーを見上げる、小田急相模原駅前の交差点です。
綺麗に整備された小田急相模原駅周辺からスタートです。
お散歩の続きへ
小田急相模原駅前
小田急相模原駅前信号の交差点に居ります。
向かって左が「ラクアル・オダサガ」、右が「ペアナード・オダサガ」となっております。
まず一旦ここの横断歩道で北側の歩道へ横断したいと思います。
こちらの一等地に、石碑が立っていました。
「新開」というのは、明治以降に開墾された耕地を表すとされていて、江戸時代までに開墾された耕地は「新田」と呼ばれているようです。
この付近は境川からも鳩川などからも遠く、大変苦労されたのではないでしょうか。
ペアナードオダサガに登るエスカレーターで上がってきて、振り返って見たところです。
足元の横断歩道を渡った先のところに先ほどの石碑や道祖神が並んでいました。
進行方向へ向き直すと
ラクアル・オダサガとペアナード・オダサガを結ぶ横断歩道橋があります。
その名も「ちょっと歩いてみませんか ラクアル/ペアナードオダサガ歩道橋」です。
相模原市の公式WEBサイトにあるネーミングライツのページによると、正式名称は「横断歩道橋(県道51号)」って書いてあるんですけどそこら辺どうなんでしょう。
ひょっとしたら全部正式名称はそんな感じで「鶴ヶ丘歩道橋」とかも愛称なんでしょうか。
では早速横断歩道橋へ行ってみましょう。
先に登った鶴ヶ丘歩道橋からの景色によく似ております。
ただ、鶴ヶ丘歩道橋が写っているので、これはラクアルペアナードオダサガ歩道橋からの景色で間違いありません。
相変わらず奥にラスボスの様相で君臨している相模大野住宅さんです。
ちなみに同じ位置から同じ角度で広角で撮るとこんな感じであります。
相模大野の伊勢丹跡タワーが立ったらここからまた撮影したいと思います。
こちらは進行方向相武台方面です。
きれいに再開発と整備がされました。
googleストリートビューでは、ラクアルが完成して、ペアナードが工事に入ろうとするタイミングの2011年の画像が最古でした。
歩道橋で左岸に戻りましょう。
すぐそこに「座間市」の案内標識があります。
この先は、相模原市南区に非常に近いところを通りますが、位置としては座間市内となっていきます。
地上に降りてきました。
目の前の横断歩道を渡って、座間市に入ります。
振り返ると「相模原市」の標識が。
いってきまーす。
またあとでねー。
座間市に入りました
座間市に入ったからと言って突然景色が変わるというようなことはなく、同じような市街地の風景が続いています。
500mほど歩くと、
「府中街道の道標」がありました。
ちょっと撮るのが難しい角度だったのですが、
この道は、平塚から東京都府中市へ通じており、東海道と甲州街道を結ぶ重要な道でした。
昭和十二年の陸軍士官学校の開校にあわせて、道すじの一部が「行幸道路」として整備されました。
と書いてあったような気がします。
写真の下のところ切れちゃってて読めなくてごめんなさい。
府中はその名の通り国府のあった街で、古くは7世紀から地域の中心として栄えてきた大きな街です。
現在の神奈川県の各地からも、府中へ向けての道が整備されていました。
(廃藩置県から1893年までは神奈川県だったりします)
前進を再開します。
左に見えているのは座間郵便局です。
相模原市南区と座間市の集配業務を行っています。
いつもありがとうございます。
相武台団地入口交差点
相武台団地入口交差点の案内標識があります。
交差点も前方に見えています。
この交差点を右折すると、県道507号相武台相模原線(通称「村富線」)となり、麻溝台や北里周辺を通って、中央区の星が丘方面へとつながっています。
左折すると県道50号座間大和線(通称「座間街道」)となり、横浜町田インターチェンジ方面へとつながっています。
どちらの道路も利便性の大きい向きの道路となっていて、日常的に交通量が大変多くなっています。
こちらは振り返って見たところです。
町田6kmということは6km歩いたのでしょうか。
前回までに比べると暑いので体感ではよくわかりません。
次回「歩いてみた」は涼しくなってからにしたいところです。
(googleマップで測ったら、原町田3丁目交差点から5.5kmだそうです。四捨五入で合っている)
というわけで相武台団地入口交差点です。
が。
ここの交差点は全方向にこの県道案内標識が立っていたので全部念入りに撮ったはず…シャッターは押したはずなんですよ…撮れてなかったんですけど。
秋以降開催の「県道507号線 ―村富線を歩いてみた―」にご期待下さい!
相武台下駅へ
先へ進みましょう。
バスがちらっと見えています。
小田急相模原駅からここまで路線バスは県道51号線を走っていない区間だったのですが、相武台団地入口交差点からはいくつかの路線が経由するようになります。
「北相武台」バス停を通過しました。
こちらのバス停には、
- 相武台前駅から相武台団地を経由して相武台前駅へ戻る「台01」系統
- 相武台前駅から村富線を経由して北里大学病院・北里大学とを結ぶ「台13」系統
- 台13系統からさらにJR相模原駅まで結ぶ「相27」系統
の路線が経由します。
こちらは次の「県営住宅入口」バス停です。
こちらには、先程の「北相武台」バス停を経由する路線に加えて、
相武台前駅と相武台グリーンパークを結ぶ「台02」系統も経由します。
「次は相武台前駅」という表記があります。
もうすぐ相武台前駅です。
その名も「相武台」交差点です。
「相武台」の名は、戦前は陸軍士官学校に付けられた名前であり、地名には使えませんでしたが、戦後、地名に用いられ、ここは座間市相武台ですが、右に曲がって50mほど進むと相模原市南区相武台になります。
相武台前駅付近です。
商業施設が多くなってきました。
前方に見えている信号が「相武台前駅」になります。
坂を下っていきましょう
相武台前駅を過ぎ、長らく並走してきた小田急小田原線ともしばしお別れ。
こちらもラストスパートです。
相武台前駅前の標高が77mですが、今日目指す座間上宿交差点の標高は36mということで、徐々に下っていきます。
古くからの「座間」の町並みはこのまま直進した先になりますが、座間市の市役所や市民文化会館・図書館などはこの「座間市役所入口」交差点を左折して小田急線を超えた先になります。
案内標識が立っていたので振り返ってみました。
町田から8kmとの表記です。
調べてみたら7kmちょいだったので、多分大体あっていると思います。
車道が「大坂」と呼ばれる坂を下っていく中で少し登ったところに横断歩道橋がありますが、わくわくしながら次回へ続きます!
当時の中和田新開とその周辺
今回も、「今昔マップ」さんのお世話になりたいと思います。
毎度どうもありがとうございます。
今回は小田急相模原駅前にあった「中和田新開」の当時の「ポツンと感」をご紹介します。
1906年(明治39年)の地図です。
大字小字集落名自治体名などごちゃまぜになってしまっていますが、いくつかの地名をピックアップして書き込んでみました。
当時の集落は、水利に優れた、東の境川沿い、もしくは西の鳩川などの河川沿いに発達したものが多く、また、その集落をつなぐように街道が発展しています。
東側にはすでにかなりの集積した市街地を形成している「原町田」があり、中和田や下鶴間などの大きな街が境川沿いに発展しています。
西側には鳩川などの河川を中心に集落が発達し、下溝・磯部・新戸・座間などの大きな街が発展しています。
また、江戸時代に開発された大沼新田は、大沼・小沼といった宙水を利用した新田で、この地図でも発展している様子が見えます。
そんな中、新開と呼ばれる明治以降の開墾は、一面の原野だったといわれる相模原台地の「上段」と呼ばれる地域の開発でした。
水利はもちろんのこと、それ以外にもおそらくたくさんの苦労があったことと思われます。
谷口新開さんがあるのは、歩道橋が撤去されていた「南保健福祉センター入口」交差点付近です。
歩道橋の名前が「谷口歩道橋」なのもこのあたりがヒントになる気がします。
しかし私が一番気になるのは「中和田新開さん、ポツンと離れてて、さみしくないのかな…」ってことです。
今回使用させていただいた今昔マップさんのアドレスはこのへんになります。
上の図で潰れてしまっている市街地を拡大して見たい方、その先はどうなってるのか気になる方、ご興味のある方は是非どうぞ。
めちゃめちゃ楽しいですから。(記事を書くのが遅れる原因とも言う)
次回予告
次回は大坂を下り、座間キャンプ前を通過して、いよいよ座間上宿に到着です!
次の記事はこちら! いざ感動?の最終回へ!